武心四徳

日本拳法との出会いとそれから

公開日: コメントなし
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こんには。タテケンです。

本日は、私が日本拳法と出会ったときの話とそれからの話をします。

日本拳法との出会い

秋澤、岩波

私が日本拳法と出会ったのは、1977年頃です。
この頃の私は、南千住中学校(廃校→図書館なっています)の生徒でした。

当時は、沢村忠さんが作り上げた、キックボクシングの流行が続いていました。
富山勝次選手、藤原敏夫選手、長江国政選手、ペニー・ユキーデ選手など、実力も花もある名選手が目白押しの時代でした。

当時、日本人の中では重いクラスであり、ウェルター級からミドル級の世界チャンピオンだった、猪狩元秀先生の試合をテレビで見たのが、日本拳法との最初の出会いです。

私の父もキックボクシングが大好きで、猪狩元秀先生も贔屓の選手でした。

テレビで放映があると、父と二人で観戦するのが日課でした。

バドミントンに夢中

しかし、当時の私はバドミントンに夢中でした。
格闘技に、興味が無かったわけではありませんが、バドミントンを辞めてまで格闘技をやる気持ちはありません。(南千住警察署の柔道には通っていましたが)

自転車で10分ぐらいの所にボクシングジムが出来て、父は私を通わせたかったようですが、母から大反対を食らい、この話もおじゃんとなっています。
ちなみに、そのボクシングジムからは、後に世界チャンピオン レパード玉熊選手を輩出します。
レパード玉熊選手は、私よりも一学年下だったので、「すげえ!」と驚くとともに、自分の事にように嬉しかったのを覚えています。

高校へ行き就職し、バドミントンは続けていました。
三重県実業団リーグ4部、3部で優勝し、2部への入れ替え戦で勝利し帰京。
帰京後、荒川区大会でシングルス優勝、ミックスダブルス優勝、ダブルス準優勝、団体戦優勝など、それなりに活躍しました。

バドミントンとの別れ

しかし、昭和60年12月、21歳からSE(System Engineer)になってから生活は一変しました。
終電で帰るのは当たり前。
休日出勤は当たり前。
週1日、2日徹夜するのは当たり前

キツイし辛いけど、コンピューターシステムを作り上げる仕事に没入し、いつしかバドミントンとも、距離を置くようになりました。
たまにバドミントンをやると、練習不足と不規則な生活からの体力低下から、思い通りにプレイできない事で、ストレスがたまるようになりました。

バドミントンは楽しかったのですが、思い通りできないバドミントンよりも、思い通り動かせるコンピュータにのめり込んでいきました。

この記事を書いた人

タテケン
タテケン 武道家、経営コンサルタント、ライター

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